家づくりにかける想い

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『大正8年創業・そして、それから』
  大正8年私の祖父が今で言うところの脱サラして起こしたのが、『津山商店』でした。勿論、株式会社でも有限会社でもなく個人事業主です。 起業する際、祖母に相談したらしく、その時『衣・食・住』のどれかだとずうっと仕事が無くなることはないだろう、という事で建材屋を始めたらしいです。 その後私の父が家業を継ぎ、『津山建材株式会社』に変更し、そしてまた私が家業を継ぎ『株式会社ツヤマ』に変え、気が付いたら100年を超えてました。
  私は昭和34年生まれですが、小学校上がる前に祖父に配達のセメントと一緒にリヤカーに乗せられ近くの建設現場に行った記憶があります。高度成長期を迎え、リヤカーがいつしか三輪トラックに代わり、その後3t、4tのトラックでセメントを配達するようになりました。学校が休みの度にアルバイトという名でトラックの助手席に乗り、配達を手伝わされたものです。
  高校を卒業し上の学校に入ろうかというとき、少し悩みました。 実は子供のころからTAMIYAのプラモデルが大好きで、いつも戦車や飛行機・軍艦とかばっかり作っていたせいか、いつしかそれを真似してその図面を想像で書くようになりました。田宮戦車.jpg『細かい図面を書くのが上手やね』と、よく店の人に褒められたりしましたが、将来は飛行機か車の設計士になろうかと思ったくらいです。

ただ、蓋を開けてみれば建築学科に進んでおりました。
現場監督時代.jpg

  大学卒業後は、とあるゼネコンに就職し早速現場監督・係員となり四国4県、車の後ろに布団を積んで回りました。学生時代は机の上だけの勉強で大変退屈に思い、自分から現場を希望しました。ただ時間が経つにつれまた設計がしたいと思い、もう一度上の学校に入り直し、その後また同じ会社に戻り今度は設計部に配属になりました。 
ゼネコン設計部.jpgローバービル図面(1).jpg

当時は1980年代最後、バブル真っただ中、東京でイギリスの建築家リチャード・ロジャーズのプロジェクトにたまたま参加する機会があり、貴重な経験を積むことが出来ました。 無事着工し地下工事がもうすぐ終わろうとした頃、バブルが弾けました。 あとに残ったのは地下駐車場を残したままの、ただ何もない空間だけでした。
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2年後、故郷に戻って家業の建材店を継ぎました。子供の頃から身に染みていたのでしょう、帰って最初にした仕事はセメントの配達でした。 
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それから30年が経ちました。 
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5年前、自宅をやっと設計・施工で建てました。
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皆からどうだったと感想を聞かれましたが、その時最初に言ったのが『初めて施主さんの気持ちが分かった』でした。 それまで、他人の家には多く携わたったものの、表面ばかり気にしてました。 自分で図面を書き、自分で監理するのだから完璧に出来るだろうと思っていいましたが、結果はそうではありませんでした。 
それは何故か? 
最大の理由は、将来の自分(家族)像、そしてその住まい方を想像し切れなったこと、だと思います。
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自宅インテリア.jpg 
建築そして住宅を語る際よく引き合いに出されるのが、間取り(動線)、性能・実用性、デザイン(美しさ)、価格・経済性、快適性(性能の一部)など、様々な指標があります。 どれか一つでも欠けると非難されるのですが、かといってすべて完璧に調和させるのは正直言って至難の業です。

ロイズビル本社と私.jpg  
40数年前のあの時、学生の頃出会った『住宅は住むための機械』という約100年前のとある建築家の言葉を思い出しました。そして40年以上経った今も、未だに反復して自分に問いかけています。

『住宅がどんどん機械化していっている』
『何か大事なものを忘れて行ってないだろうか?』
コルビジェ.jpgドミノシステム.jpg"  
  

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